すぐうだうだいう

ちょっとおかしな会社で働く体験記。

えぴそーど ろく ぽえむ

私ジェネレーションは、学生時代のmixiに始まり、友人とのホームページ、ブログ、FacebookTwitterInstagramと、SNSに日記やつぶやきを書いて、不特定多数に見られることに抵抗がないお年頃です。

また、人に見られることがどういうことか、それが人にどう思われるか、ある程度の計算と思惑を乗せて書き込みます。もちろん、自分の主張はするものの、全員の共感を得たいとは思っていませんし、共有することが目的ではないので、心に染み込ませようなんておこがましいことは考えません。

 

表現方法を取捨選択しながら、自分の思い描く理想像を作り上げるために、いろんな手段を使います。あくまでも自分の主張は自分でして、それにイイねをしてもらったり、既読スルーだったり、それはそれで相手にゆだねます。

 

で、本題にはいります。

 

週に一度、朝礼にて詩の朗読があります。「目をつぶってお聞きください」と促され、国語の教科書バリに句読点をしっかりと意識して読んでくれます。

しかし、内容は朝から悲しくなるような絶望的なものや、どんだけ考えても意図がわからないような、かと言ってストーリー性があるわけではなく、なにかを諭されているようで、そうでもないような、とにかく朝に聞くにはどうもパッとせず、説得力もなく、え?これ何の時間?っと首を傾けたくなる時間、ベスト5に入るくらいの、簡潔にいえば100発100中で駄作!ってハンコをドーンと押せるような、そんな時間があります。

 

当初、どこからこんなダッサイ詩を選んで持ってきているのかと、総務部のセンスの悪さを疑っていましたが、謎は簡単に解けました。

 

作者理事長。

 

それを毎週目をつぶって聞かせるというなぞのプレイ。

 

SNSで、不特定多数に見られることに慣れている世代でも、考えられないプレイです。

人にどう思われるか考えただけで怖いです。

まず、人にそれを読ませる、という点。

自分の主張を人にさせるなんて、その人に申しわけないな、と思います。

次に目をつぶって聞かせる点。

何を染み込ませようしてるんだ、という図々しさにゾワゾワします。

最後に、作者不明な感じで読み上げられる点。

人に聞いて欲しいのであれば張り出すとか、自分の名前を出すとかすればいいのに、そこはあえてホワっとさせています。無責任な主張。

 

詩を書く事は素敵なことです。伝えたいことがあることもわかります。

そういう私も、中二のころ、なにかに詩を書いたりしていた気もします。今思い出すだけでこっぱずかしい過去です。でもそういう青臭い時代があったからこそ、表現方法を選んで、言葉を選んで、主張できます。

 

 

何が言いたいのかというと、朝礼のあの時間もテアトルだな、ということ。